重賞競走
'91 朝日杯3歳S G1
'92 皐月賞 G1
'92 日本ダービー G1
'92 スプリングS G2
'92 京都新聞杯 G2
義父の生産馬でもあり、種牡馬を引退したので引き受けることにしました。引退後も人気があり、札幌競馬場開催の月には150組程ファンが訪れることもあります。
健康状態は良好で従順で扱いやすいです。
着順 | 日付 | レース名 | 競馬場 | 芝ダ | 距離 |
1 | 1991年12月08日 | 朝日杯3歳S G1 | 中山 | 芝 | 1600 |
1 | 1992年04月19日 | 皐月賞 G1 | 中山 | 芝 | 2000 |
1 | 1992年05月31日 | 日本ダービー G1 | 東京 | 芝 | 2400 |
1 | 1992年03月29日 | スプリングS G2 | 中山 | 芝 | 1800 |
1 | 1992年10月18日 | 京都新聞杯 G2 | 京都 | 芝 | 2200 |
2 | 1992年11月08日 | 菊花賞 G1 | 京都 | 芝 | 3000 |
年 | 主催者 | レース回数 | 1着 | 2着 | 3着 | 着外 | 賞金 |
1991年 | 中央 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 59,386,800 |
1992年 | 中央 | 5 | 4 | 1 | 0 | 0 | 466,583,000 |
合計 | 中央 | 8 | 7 | 1 | 0 | 0 | 525,969,800 |
年度 | 表彰情報 |
1991年 | 最優秀2歳牡馬 |
1992年 | 年度代表馬 |
1992年 | 最優秀3歳牡馬 |
競走生活を終え、故郷に戻れる雌馬は多かれど、雄馬に目を転じると数える程しかいないのが現状です。
そんななか、生まれ育った場所で余生を過ごしている幸せな1頭がミホノブルボンです。
1991年、中京芝1000mの新馬戦をレコードタイムで制すると、朝日杯3歳S、皐月賞、日本ダービーと続くGⅠレースを制覇。
菊花賞でライスシャワーの2着に敗れるまで全勝の強さを誇りました。
ヒーロー列伝のポスターに添えられたキャッチコピーは「スパルタの風」疾風の如くターフを駆け抜け、1994年、日高軽種馬農業協同組合・門別種馬場で種雄馬入りを果たしました。
日高管内に甚大な被害をもたらした台風10号が過ぎ去った2003年8月、ミホノブルボンは生まれ故郷であるファニーヒルファーム(旧原口圭二牧場)へ戻り、種雄馬生活を継続。
2012年シーズンオフを持って種雄馬を引退し、繋養牧場も義理の息子さんが経営するスマイルファームへと変更されましたが、馬房と放牧地はそのままの場所で過ごしています。
ブルボン専用に建てられた出入り自由の馬房の横には、訪れたファンのために休憩室を併設。
写真や記念品、送られたプレゼントなどが所狭しと飾られていて、さながら記念館のよう。
隣の放牧地では離乳を終えた当歳馬が元気に走り回り、原口圭二さんは
「ブルボンもこの放牧地で育ったんだよ。
景色が余り変わらないように、あえて隣の放牧地をブルボン用にしたんだ」
と教えてくれました。
原口さんの娘であるスマイルファームの中村陽子さんは、ブルボンが牧場にいた頃のことを良く覚えているそうで
「まだ小学生でしたが、家の手伝いで馬の世話はしていたんです。
当時、父が“我がままな当歳馬”と言って苦労していたことが記憶に残っているんです。
ブルボンに対するイメージはその頃から変わっていませんね。」
「普通馬ってものは群れる生き物で、放牧中ちりじりになることはあっても集牧の時なんかは必ず全員で戻って来る。
それがブルボンだけはみんなが戻ってもひとり奥へ奥へと行ってしまう。
毎日追いかけっこで大変な苦労をさせられたよ。
ここまで協調性がなくて将来大丈夫なんだろうか?って心配にもなったし。
何年も牧場やってて、こんな馬は後にも先にもブルボンだけだったね」
と原口さん。
出入り自由の厩舎を建てた理由も、この経験があってこそだったそうです。
熱心なファンが多く、そのほとんどが女性だということをしっかり理解しているというミホノブルボン。
陽子さんは
「女の人が来るとすぐ寄って来ます。
男の人にはあまり興味を示しませんから、ニンジンをくれる、チヤホヤしてくれるってわかってるんですよ。
かなり人間臭いところがありますね。」
と笑い、
「父からバトンを受け継いだ牧場経営と大切な生産馬。
長い付き合いですし、甘やかしてあげないから私のことはあまり好きではないみたいだけど、これからもずっと一緒に、長生きして欲しいです。」
と目を細めていました。
動画も公開していますので「ミホノブルボンの近況」からご覧ください。